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   <title>4143	アリバイ霜越の今日の一言</title>
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   <title>廣岡ＧＭ</title>
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   <published>2008-04-15T01:01:38Z</published>
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      <![CDATA[嫌な感じの人ですよね。。

廣岡 達朗（ひろおか たつろう、1932年2月9日 - ）は、広島県呉市山手町出身の元プロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。

人物
現役時代は読売ジャイアンツで活躍し、引退後は広島東洋カープ、ヤクルトスワローズ、西武ライオンズの守備コーチ・ヘッドコーチ、監督を歴任し、最下位球団だったヤクルト、黎明期の西武をリーグ優勝・日本一に導いた。その後は千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャーを経て、現在は野球評論家。愛称は「ヒロさん」。あるいは単に「ヒロ」。野村克也や森祇晶が「狸」と呼ばれるのに対して、広岡は「狐」とも呼ばれる。

父は旧日本海軍の少佐で、駆逐艦の機関長であった。兄・広岡富夫は公務員（広島県庁）からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を放った広島カープの元選手である。また、鶴岡一人は小学校の先輩にあたる。また、氏の孫は宝塚音楽学校に94期生として在籍。2008年麻央侑希としてデビューする。

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1992年、野球殿堂入り。

読売ジャイアンツ選手
1954年、水原茂監督率いる読売ジャイアンツに入団。背番号は2。当時の正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪い打率.314、15本塁打、67打点をマークして新人王を獲得した。 以後もチームの正遊撃手として活躍し、阪神タイガースの吉田義男と並びセ・リーグを代表する遊撃手と称された。打撃面でも通算118本塁打、特に1958年には右膝を故障して2ヶ月欠場したが、復帰後は18本塁打を放つなどパンチ力もあった。

1961年より監督が水原から川上哲治に交代し、広岡はコーチ兼任となる。1964年8月6日の国鉄戦で、広岡の打席のとき三塁にいた長嶋茂雄が独断でホームスチールを行い、巨人ベンチも特にそれをとがめようとしなかった。広岡はこれにバットを叩きつけて激昂し、「私のバッティングがそんなに信用できないのですか!!」と激怒し、試合途中であったにも関わらず球場を後にした。川上は1964年シーズン終了後に広岡のトレード放出を画策したが、広岡が正力松太郎に「トレードされるなら巨人の広岡で終わらせてください」と引退を直訴する。しかし正力は残留を指示、トレードは御破算となり、また川上はスポーツマスコミから総攻撃を受ける。残留した広岡も翌年から出番が減り、1966年は14試合の出場にとどまり現役を引退した。

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引退後はラジオ関東、サンケイスポーツなどで評論家活動。現役引退直後の1967年2月にメジャーリーグのキャンプの視察をするため渡米する。フロリダ州ベロビーチのドジャースタウンで行われていた巨人のキャンプも訪れたが、監督の川上は広岡に対する取材を許さず、選手に対して「廣岡と口を利くな」という指令を出し、さらにドジャースタウンへの宿泊も許可しなかった。広岡はこの川上の仕打ちに激怒し、文字通り殺意を抱くほどの激しい怒りを感じたと述懐している。しかし森祇晶一人だけが広岡の宿泊したモーテルを訪れて、広岡に気遣いを見せ、広岡は森に深く感謝する。以後、広岡は森と仕事を共にするようになる。
（以上、ウィキペディアより引用）

私はあまり好きじゃありません。。

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